麻雀界


『麻雀界』でも絶賛連載中!「ねこまあじゃん」
<第14章>
麻雀の黄金期を支えた雀豪作家たち
日本麻雀史の特異な現象の一つは、その発展の過程に多くの文化人が寄与していることだ。
とりわけ小説家が果たした役割は大きい。昭和初年の黎明期では菊池寛、久米正夫を代表格として挙げることができる。菊池は麻雀の普及、啓蒙に、久米は麻雀ルールと段位等に言及する文章を多く残している。
麻雀の興隆期といえる昭和中期には、これから書こうとする五味康介と阿佐田哲也の二人が登場した。

先に見たとおり、昭和四一年の全国の雀荘数は一一、二四八軒だった。それが翌々年の四三年には一四、七二二軒と年に千軒強の増加ぶりをみせていた。
こうしてみると、未曾有の麻雀ブームの助走がすでに始まっていたといえよう。
この昭和四一年に麻雀の新しい世界を巧みに切り開いた二人の作家が登場した。 五味康介と阿佐田哲也。

先駆的な役割を果たした 五味康介  剣豪作家として名をはせていた五味康介が、麻雀モノに手を染めたのは、昭和四一年(一九六六)の『五味マージャン教室』(光文社刊)が第一作だった。副題に「運3技7の極意」とある。
この新しいスタイルの麻雀戦術書の出現は、すでに始まっていた麻雀ブームに拍車をかけた。 発売後たちまち版を重ねるベストセラーとなり、その後ロングセラーを続ける。これまでにない斬新な手法と作家らしい格調の高い文章表現で麻雀読者を発掘した。 翌四二年(一九六七)、小説『暗い金曜日の麻雀』(秋田書店)が発表されるや、爆発的な麻雀読者の支持を得、麻雀小説という新しいジャンルを開拓した。 五味康介は、この二作の創作で先駆的役割を果たした麻雀モノ作者として、麻雀史に不動の地位を得ることになった。 これまで麻雀の書物といえば入門書が主流であり、戦術書はその延長線上に付け加えられる程度か、まとまったものでもどの程度のクラスにも通用する一般的でセオリー的なものであった。 五味の登場で、麻雀モノは戦術書であれ読物として付加価値を高めファンの心を掴んだ。 麻雀は「打つ」だけのものではなく、「読む」ものとしてもより広くひろまった。 その後、五味は昭和四九年(一九七四)に『麻雀一刀斎』(グリーンアロー出版社)を、翌年の昭和五〇年(一九七五)に『雨の日の二筒』(グリーンアロー出版社)を、さらに昭和五一年(一九七六)に『五味マージャン大学』―10戦9勝の奥義―(青春出版社)を発表した。 この立て続けに出版した三作は、まさに麻雀ブームの最中にあり、いずれも多くの麻雀読者を魅了した。

この時期になると、五味に触発され多くの著名作家が麻雀小説や麻雀エッセイを書きはじめ、大いに出版界を賑わすようになっていた。
その中のひとりに阿佐田哲也がいた。阿佐田については、詳しく後述する。 五味が切り開いた、麻雀を「読む」という世界への道筋は、予想外の展開へと発展する。 麻雀ジャーナリズムの本格的な始動と麻雀雑誌の出現である。 編集者として五味担当をしていた西野孝夫が勤め先の出版社に働きかけ麻雀雑誌の出版を試みた。 麻雀専門誌の先駆けとなる『プロ麻雀入門』(新評社)が発刊されたのは、昭和四五年(一九七〇)だった。 昭和四一年の五味の戦術書『五味マージャン教室』が出て四年後ということになる。 翌年、編集長となった西野は、大幅にページを割き、五味戦術記事を大特集した。これが爆発的に売れ、商業誌としての麻雀雑誌の試金石となった。『週刊現代』誌が「なぜか麻雀雑誌が売れている」という特集記事を組んだほどだった。 麻雀雑誌の出現については、後で詳しく書く予定であるが、ここでは麻雀雑誌の出現は、五味康祐の先見性と阿佐田哲也の登場が下地となっていたことに触れておきたい。 ついでに記しておくと、阿佐田が登場し圧倒的な人気と艶やかな活躍を見せるに到ると、五味は「後は色川(阿佐田の実名)に任せる」と、わたしに告げた。 そしてそれ以後、麻雀モノを書くことはなかった。 五味は執筆ばかりではなかった。 麻雀モノを書く作家は阿佐田もそうであったが、打ち手としても卓越した技量の持ち主だった。 それに何よりも卓上での存在感は、千両役者そのものであった。 着流しの着物、長い鬚を蓄えた特異な風貌とともに、五味流技の打ち筋には独特の魅力と雰囲気があった。 五味は、大阪生まれで現在の大阪府立八尾高等学校を卒業。第二早稲田高等学院中退後、明治大学文学部文芸学科を卒業。 日中戦争時であり、学徒動員で中国大陸を転戦。敗戦を迎えたときは南京で捕虜となっていた。 それゆえ、五味の麻雀には大陸の匂いがした。 (つづく)
続きは本誌にて!!
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